クロノス☆生き残りを賭けた「新メニュー」はじめました

2024年4月、日本がまた一歩破滅に向かって踏み込んでしまったようです(-_-;)

重信メイさんの『秘密』を読んで知ったこと(日本赤軍と連合赤軍が別であることすら知らなかった;)

シオニストのジェノサイドが始まって重信メイさんのポストを目にすることが増えた。パレスチナのこともよく知らなかったので、「とりあえず読みやすそうなものから読んでみよう」と選んだのがメイさんのこちらの書籍。

まず、私はとんでもない勘違いをしていて、メイさんの母親である重信房子さんが「あさま山荘事件赤軍派」の人だと思い込んでいた。というより、「赤軍派」というのはすべて同じだと思っていた。

 

日本赤軍パレスチナ解放のために国際テロ事件を起こした組織で、そのメンバーはイスラエル・日本政府から常に追われる存在であったとのこと。けれど、アラブ人にとって彼らは「英雄」として尊敬されていた。 

 

そんな事情からメイさんはずっと国籍もないまま赤軍メンバーと共にレバノンで過ごし、当然重信房子の娘ということは外部には秘密だった。書籍にはそんな日々が綴られているが、学生生活の楽しい面も描かれているので軽い気持ちで読み進められる。

 

彼女が日本に来たのは重信房子が逮捕された時。日本の方が安全だという房子さんの配慮で難しい手続きをなんとかクリアーして彼女は日本に来た。(ちなみに父親はパレスチナ人)

 

政治的な話はあまり出て来ないのだが、ところどころに「これはメモっておきたい」ということが書いてあるので「備忘録」的にここに書き留めておく。

 

【カーナ大虐殺とヒズボラ

 

1982年、イスラエルベイルートを包囲した。その時にシーア派イスラム教徒の中から民兵組織として生まれたのがヒズボラ(神の党)。レバノンでは国会議員を擁する政党で、政治的、社会的にも大きな勢力。

 

1996年4月18日、イスラエルは国連管理下の避難所を無差別攻撃した。

 

例によって「ヒズボラが紛れ込んでいるかもしれない」という理由で、子ども、高齢者、女性を含む170人の市民を無差別爆撃で殺し200人の市民に負傷を負わせた。【カーナ大虐殺】

 

*ほらね、元々こういうことをする連中なのよ。

 

このニュースに激怒したレバノン全国民は宗派を超えて救援活動をはじめた。(「82年にイスラエルの侵攻を受けた時も、昨日までディスコで踊っていた少年たちまでもが武器を取って戦ったという」)

 

こうした住民たちの解放運動が2000年5月25日のイスラエル撤退に結びついた。

 

身分を隠さなければならないメイさんだったがこの時初めて政治的な活動をした。

 

「誰もが懸命に作業をした。学生の中には外国からの留学生も大勢いた。すべての学生が何かやらなくれはという気持ちで提案をし、行動した。だれもが、自分の希望と人々の要求が一致しているという気持ちよさを、この時味わったと思う。ネガティブな状況に打ち勝とうとするポジティブな力が、大学のキャンパスにみなぎっているのが私には感じられた。美しい力だ、と思った。この救援活動を通して、人は宗派や政党の違いを乗り越えてひとつになれるということを知った」

 

大学時代をエネルギッシュに過ごしたメイさんはその時恋人がいたが、当然彼にも自分の身分は話すことができなかった。

 

そんなある日、レバノンに身を隠していた日本赤軍のメンバ-たちが次々と逮捕されたのだ。西側が経済援助と引き換えに彼らの逮捕を持ちかけていたのだ。本来はアラブの英雄としてアラブ諸国の政治家や団体に守られている立場だったのに。

 

自分も逮捕される可能性がある。メイさんは悩み抜いた末、彼に告白する。彼が去っても仕方がないと覚悟を決めていたメイさんに返ってきた言葉は「もっともっと君を守っていく」だった。

 

そして、2000年11月8日、重信房子が日本で逮捕された。(房子さんは大阪に潜伏していた)

 

www.youtube.com

 

レバノンで既に日本国籍を取得していたメイさんの入国は簡単だった。いきなり空港で多くの報道陣に囲まれたのは予想外だったが。

 

翌日母と面会する前にメイさんは初めて桜を目にした。

 

会いたくて会いたくてたまらなかった母に会ったメイさん。(逮捕前から二人は会うことができなかった)プラスチック越しにてのひらを合わせた。新宿御苑で拾った桜の小枝を母に見せる。「いつか二人で桜を見ようね」という夢がこんな形でしか叶わなかったのが悲しかった。

 

その後、メイさんは日本語を勉強しパレスチナの現状を日本語で伝えることができるようになった。パレスチナを知ってもらうための活動をはじめたのだ。

 

そんなある日、イスラエルPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の議長を爆殺したシャロンイスラエルの首相になってから、国策政策として暗殺を正当化しパレスチナ人のリーダーを次々を暗殺していたのだ。房子さんは「法廷の証人としてもっともふさわしい友人」を失ってしまった。

 

メイさんが帰国してから二週間後に祖母と会うことが叶った。受け入れてくれるか心配していたが、温かく迎え入れられてその後は優しい時間を共有している。最初メイさんと会う事を躊躇していたおあばあちゃんの世界は「メイちゃん、メイちゃん」の世界に変化したのだ。

 

日本でのメイさんは「テロリストの娘」という差別を経験することは少なくなかったようだ。「テロリストのお金を扱うのは嫌だ」という理由で銀行口座の開設を拒否されたこともあるそうだ。…日本的というか…(-_-;)

 

ま、件の「アラビア語を良く知らないイスラム思想研究者」とやらが今だにこんなこと言ってますんでw (別に探したわけではなく「重信メイ」で検索したら勝手に出てきた)

www.sankei.com

 

駐日イスラエル大使ギラッド・コーヘンは2022年5月31日、「出所した重信房子元最高幹部が温かく迎えられる姿を見て愕然としました。」とツイートしている[27]

 

このイスラエル大使の言葉を補完するために書いた(或いは産経が書かせた)記事かな?

 

最後はレバノンに里帰りした話と国際ジャーナリストになって偏見のない情報を伝えたい、という話、そして「共存」についてで締め括られている。

 

以上が書籍の内容。

 

 

これは20年以上前の話。その後、彼(パートナー)とはどうなったのか気になるところだが、Wikiを見ると未婚なので結婚には至らなかったようでちょっと寂しいな。Wiki情報によるとメイさんの父はPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の指導者とある。出どころがアルジャジーラなので信憑性はある。爆死した議長がそうであるかはわからないけど…。

 

今のメイさんは

目指したジャーナリストという仕事で幅広くご活躍されてるようだ。

 

最後にメイさんがRTした中で印象深いものを貼っておこう。

 

 

こうして日本のために思いを馳せてくれたパレスチナ人のうち何人が命を奪われたことだろう。それをろくに調べもせずに「ハマスが悪い」の免罪符で虐殺を歓迎する連中の醜いことと言ったら。

 

ロシアに対しても、中国に対しても、つくづく「恩を仇で返す」のが好きな国民が多い国だよね(-.-)