時事系の合間に時々小説を読んでいるのだが、今のところ、朝井リョウに外れはないが朝井リョウ以外は全部外れてる。朝井リョウを読んで感動することはないしむしろ後味は悪いんだけど、なんか「人間」のコアの見えないところをえぐり出すようなテーマが刺さるんだよね。
簡単に言うと「特殊な性癖」を持った人達の話なんだけど「少数派であること全般」にあてはまる話。ただ、これを常に多数派に身を置いている人が読んだら何を思うのかわからない。 ただの「異常性癖の人達の不幸話」になってしまうのだろうか?
この小説を読んで、過去に自分が「普通のひとたち」からはみ出した時のシチュエーションをいくつか思い起こした。
直近昨日w 某セミナーを受講したのだが、座学だと思っていたらしっかりワークショップ型で、意識や認識が違いすぎて噛み合うわけがなく私には苦痛の3時間だった。特に今は、世界がどうなっているか、日本がどう崩れ始めたが、を知っているだけに彼女たちのお花畑に辟易するわけよ。そういうレベルに自分を下げる気にはなれないので結局はみ出す方を選ぶんだよな。
数年前にキャリアコンサルタントの講習(定価30万円くらいの実習なんだけど、これどうせ厚労省の荒稼ぎでしょ? これ取るならFP取った方がいいよ)受けた時はもっと酷かった。なにせそういうところに来るのは「厚生労働省のお墨付き」がほしいタイプの人だからクローン並みのお羊様、私が一番合わない人達。7時間/dayを10日くらいの日程だったから死ぬほど苦痛だった。(この資格、取ったら取ったで更にお金がかかるくせに仕事はほとんどないと言われたので結局試験は受けなかった)
けど、今の職場では全然はみ出してないんだよ。その要因はなにか考えたんだけど、まずボスが変人(いい意味でね)。それからスタッフに外国人やZ世代が多い…… こういう環境だと日本人スタッフも個性派ぞろいになっていく。ボスがそういう人を好んで採用するというのもあって。結果、他では「変わってるね」と言われる私の評価は「面白いね」になる。
つまり、価値観のダイバーシティ(多様性)ってことよ。価値観が画一的な人が揃ったら1時間で逃げ出したくなる。
けど、人間って本来そんな画一的なものなの? 人間が画一的なのではなく「常識の内側」が画一的なんでしょ?
佐々木佳道はこの気づきを得た↓
まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとって最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。
なぜ人は自由や自分の意志を殺してまで多数派であろうとする? 「不安だから」、佐々木は答えを得た気がした。
不安だから、周囲の社員を巻き込んでまで噂を流すのだ。あいつを異物だと思っているのは自分だけじゃないと確かめたかった。異物だと感じるものが周囲と一致するという事実をもって、自分が多数派、すなわちまとも側の人間だということを確認したかったから。
この小説からは色々なメッセージが読み取れるだろうが、後になって「そういうことか」と思わせることもたくさん潜んでいるのだろう。
「神戸八重子」という登場人物がいて後半からウザかった。このウザさは小説を読んで味わうべきものなので敢えて書かないけど、私には「パレスチナとウクライナの国旗をつけた偽善アカウント」を思い起こさせた。寄り添ってるつもりで実は上から目線、すべてを自分の文脈にはめ込む偽善者。
けれど、この小説は最後、神戸八重子で終わっていく。その意味がわからなかった。その直前に展開した二人の登場人物の「繋がり」と神戸八重子が描いた「繋がり」の対比だと私は勝手に考えてはいるが。
それから、この小説で描かれていることのうち一番恐ろしいのは、少数派が理解されないことで冤罪が犯罪になってしまうということだ。もっとも、今の世界は「民間人をころしてもいい」ということが「まとも」で、それを糾弾したら「異常」と認定されるという世にも恐ろしいディストピアと化しているけどね。
朝井リョウの小説は基本ネガティブ(少なくとも私が読んだものは)だけど、闇の中で光る玉石のような描写がいつもkどこかに入っている。それを光らせるための構成が非常にうまい。
最後に「物語を作るのに演出はとても大事」という話。逆に言えば、こういうプロパガンダに簡単に騙されるのが多数派だ。「ただのネコの喧嘩だ」なんて言ったら異常者として排除されるからなw
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the scene where everyone cried pic.twitter.com/flsDVCDbCi
— Punch Cat (@PunchingCat) 2025年1月10日