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『明治維新という名の洗脳2』維新のヒーローはイギリスのエージェントだったのか?

 

明治維新という名の洗脳

明治維新という名の洗脳

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第2章 イギリス外交

 

「それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」

 

この意味深な言葉は、1866年4月20日、イギリスのハモンド外務次官がイギリス駐日大使のハリー・パークス宛てに送った通信の一部。陰謀論界隈では「イギリスが陰から日本をコントロールしていた証拠」と言われている。

 

だが、苫米地博士の分析ではそれはNO! 当時のイギリスは日本をそれほど重要視してはいなかった。クラレンドン外相がパークスに「貿易の発展だけを求めているのだから日本の内政には関わるな」と厳命していたくらいだ。

 

けれど、パークスは第二次長州征伐の時期に鹿児島を訪問して西郷隆盛と会談している。やはり、巷で言われているように「幕府のバックはフランスで薩長のバックはイギリス」なのだろうか?

 

これもNO! 実際のところパークスは常に幕府寄りだった。フランス公使ロッシュと「幕府にいかに擦り寄るか」を競っていたレベルなのだ。

 

では、なぜ西郷と会ったのか? 

 

パークスは西郷たちが「開港に反対している理由」を確認したかったのだ。当時のイギリスにとっての最重要課題が「開港」だったのだから。そして西郷は「開港反対は幕府の利益独占を妨害するためで開港そのものに反対しているわけではない」と説明してソフトランディングとなった。(この会談は険悪ムードで始まったと言われている。それがパークスが薩長寄りではなかったことの証でもある)

 

この会談の前にパークスがハモンドに報告した内容が

 

薩摩藩から領地訪問の招待を受けた。イギリスと関係を持ちたい雄藩があったら会ってみたい」

 

それに対するハモンドの答えが

 

「それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」だった。

 

つまり、謀略を促すどころが逆に「あまり派手に動いてイギリスが関与しているような印象を持たれることは避けろ」という意味なのだ。

 

薩長のバックアップは別に居た

 

それは、イギリス駐日通訳官のアーネスト・サトウという男だ。(日本姓の佐藤とは関係ない)当時の日本の情勢と武士たちの動向をもっとも理解していた外国人だ。

 

サトウは「英国策論」という論文で「私たちは幕府を倒したいのではなく自由な貿易がしたいだけ。幕府はそれを妨害するがゆえに仕方なく対抗しているのである」という大義名分を雄藩たちに与えた。

 

そして、薩長の本当の望みが「倒幕」であることも見抜き、それを応援した。

 

英国外交に二つの流れができた ↓

「パークスの幕府尊重外交」と「サトウの倒幕運動」だ。

 

密かな倒幕運動

 

サトウについては彼の上司である駐日英国公使館の書記官アルジャーノン・ミットフォードが詳しく書いている。

 

大阪入りの時にサトウが毎日のように会っていたのは

 

薩摩藩小松帯刀

長州:伊藤俊輔木戸孝允井上馨(←もっとも親しかった)

土佐藩後藤象二郎、中井弘蔵 

 

そしてミットフォードの目からみても、長州の伊藤、木戸、井上は策略家と映った。彼らは、1967年3月、ほとんど毎日サトウたちの元に訪れていた。

 

ミットフォードの日記に加賀藩を訪れた時サトウが「加賀藩から2人の藩士を弟子にしよう」と言った話が書かれている。それは「エージェント」を意味していて、サトウが実質的なスパイマスターの役目を日本で果たしていたということになる。

 

巷ではエージェントと言えば薩摩藩松木弘安寺島宗則)が有名だが、それは彼がクラレンドン外相の元を訪ねた際、外相が彼を「薩摩のエージェント」と呼んだことからそれが定説となっただけ。それはあくまでも「薩摩のエージェント」であって「イギリスのエージェント」ではない。

 

当時の複雑な背景の中で攘夷派は夷狄を滅ぼすために立ち上がったが、夷狄の強さに白旗をあげることになってしまった。そして振り上げた拳の落としどころとして倒幕を選んだのだ。そんな彼らにはサトウの英国策論という大義名分は渡りに船だったのだ。

 

サトウの弟子」というのはいつかは攘夷を行うために各藩から送られたエージェントであり、同時に、サトウからイギリスの思想を植え付けられてイギリスのエージェントになってしまう侍のことであった。そして多くのが場合、彼らは密航留学生であった。

 

密航留学生:長州ファイブ

 

1863年6月27日、長州ファイブ(伊藤博文井上馨、山尾庸三、野村弥吉=井上勝、遠藤謹助)がイギリスへと密航した。

 

これは非常に奇怪な話なのである。

 

その2日前に萩藩は外国船に対する攻撃を開始している。それなのに藩費で外国に留学するのはおかしいではないか。そして、その攻撃の際、イギリス船舶には攻撃をしていないのはなぜだろう? 

 

彼らがイギリスと通じていたという証拠はない。だが、面白い状況証拠は発見されているのだ。

 

井上・伊藤のおかしな行動

 

まず5人は上海に向かったのだが、ちょっとした手違いから伊藤と井上は残りの3人と別行動となった。

 

そして、ロンドンについた5人は下宿先からユニバーシティ・カレッジに通うこととなるのだが、そもそも数年間の予定で留学しているのに、伊藤は2カ月分しか聴講料を支払っていない。井上にいたっては0。留学目的渡航して学費を払わないのは辻褄が合わない。

 

そして、その後、四カ国連合による長州攻撃がはじまりそうだと聞いて、伊藤・井上は驚いて急遽帰国したのだ。(渡航から半年の時点)この二人ははじめから早めに帰ることが決まっていたので学費を納めなかったのではないだろうか?

 

萩藩が外国船舶を無差別攻撃することを伊藤たちは事前に知っていたようだ。ならば、報復されるのも想定内。「驚いて急遽帰国」というストーリーは成り立たない。

 

一番つじつまが合うストーリーはこれだ。

 

「イギリス側が日本人の有望な若者を英国に送り、その国力を見せつけると同時に、文明の利便性を教え込むことで彼らを英語側に取り込んでしまう」

 

アーネスト・サトウが考えた日本の統治法

 

「日本人は服従の習慣があるのだから外国人が統治することはできるだろう。だが、それには言葉の壁があるので、侍階級に統治させよう」そして、その侍階級をイギリスが統治すれば日本を掌握することができる。

 

日本人を制するには圧倒的な実力差を見せつける方が効果的とし、それに桂小五郎木戸孝允)が同意した。これは下関戦争や薩英戦争のことで、そこでイギリスは日本に橋頭堡を築いたということなのだ。

 

これがイギリスの外交で、今でもこのやり方が続いている。

 

イギリスの官僚たちをアメリカやイギリスに留学させて、彼の考えを学ばせると共に、その国の政治家・有力者とのパイプを作る。それが日本に帰った時の力となり、外国からすれば日本における楔となる」

 

留学生はエージェントであり、それは今でも変わらない。

 

まとめ以上

 

つまり、英国政府は「開港さえしてくれればそれでOK」だったのをアーネスト・サトウという存在が居たために日本は統治されてしまうということなのかな?

 

この名前、なんか聞き覚えあると思って調べたら、通ってた大学に屋敷があったんだ。興味がないから記憶には残ってないけど、この名前は目にはしていたのだろうな。「維新を目にした外国人」という世間の認識に違和感があるが…歴史なんてそんなものだから仕方ないね。勝てば官軍で勝者に都合の良いストーリーになってしまう。

 

調べた限りでは「ヨーロッパの銀行家」とのつながりは出て来ないのだが、先をちらっと読んだ感じだと、要因はいくつも重なっていて「銀行」は後からしっかり登場してくるようだ。サトウとの関係はいまのところわからない。

 

「現実は小説より奇なり」で面白くなってきましたね。

 

しかし、維新の志士たちは曲者が多いな。良きも悪きも今の日本にこれだけのスケールの人って居ないよね。